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“よく、「いつか死ぬのだから、短い生をがむしゃらに生きよう」だとか、「どうせ死ぬのだから、死ぬまでの時間を適当にやり過ごせばいい」だとか、死を根拠に様々な生き方が主張される。この結論の多様さが物語っているとおり、全部こじつけである。
 
死を根拠にエネルギッシュに生きたい人は、最初からエネルギッシュに生きたいのであり、死を根拠に無為に生きたい人は、最初から無為に生きたいのであり、その本人の性質を、「死」という変幻自在のジョーカーカードによって映し出しているだけのように思う。
 
死の存在から生き方は導かれない。にもかかわらず、とかく人は、死というものを生の内部に回収しようとしがちである。
 
僕が以前から、中沢新一やマルセル・モースらの「贈与論」、およびそれと切り離せない「エロス(生)とタナトス(死)の二元論」に対して抱いていた違和感、というか、コレジャナイ感の理由もここにある。
 
中 沢いわく、「死への恐れ」が「不滅への深き欲望」へと変わり、それが計算的な人格を形成し、文明の原動力となった一方で、「贈与の風」を止め、霊的な交わ りを殺してしまったのだという。これは実感としてもとてもわかりやすい。恐怖心が生まれると、物事を計画的に確実に進めたくなるものである。
 
しかし、これはあくまで「死への恐れ」の中で人がいかに生きようとするか、という話であって、どこまでも生の内部の話である。
 
本来の、死そのものの観念がもたらす人格というのは、もっと虚無的であり、恐怖に突き動かされた計画性というよりは端的に俯瞰的・メタ的であり、そしてずっと穏やかなものであると思う。”
 
- 死の存在から生き方は導かれない - 10万円で家を建てて生活する寝太郎のブログ