334

“ 江戸期に重罪を犯した者は、死罪となりました。これはもう助かる可能性は、動乱でもない限り皆無です。そして次に重い刑が遠島でした。八丈などの島に送られました。
   
 八丈島では、ほとんど米が取れません。ですから前にも書きましたが、八丈島は年貢米の代わりに黄八丈が貢納されました。もともと食糧不足の島に、罪人が送られたわけです。ここではすべて自給自足です。島に上がった罪人をまず襲うのは、飢えです。
 
 極悪人も、腹が減っては身動きできません。厳しい自然の中で立ち往生し、体を弱らせ死んでいきます。ご赦免など、めったなことではありません。
 江戸の地を、もう一度踏みたい。誰でもが願ったに違いありません。
   
 望郷の念やみがたく、ついには島抜けをしようとする者まで現れました。享保七年(1722)から明治初めの百五十年ほどの間に、八丈島での島抜けは18回ほどくわだてられたといわれています。
   
 しかし潮の流れの激しいこのあたりは、小舟では簡単に逃げ出すことができません。穏やかな凪の海では、監視の目も厳しくなります。成功例は、天保九年(1838)の一度だけです。
   
 下総佐原の大百姓の倅喜三郎(30)と吉原の花魁である大坂屋花鳥(28)ら七人が、小舟に乗って島を出ました。6日かけて常陸の鹿島灘に上陸しています。
   
 名うての豪の者でも、大勢が海の藻屑となって命を落としましたが、なんと逃げ延びた者のうちの一人が女性だったというのは驚きです。体力は男性に劣ることがあっても、いざとなると強い精神力があるということでしょうか。
   
 喜三郎は、喧嘩によって人を殺し流罪となりました。花鳥は、自分が働いていた廓に火をつけた罪です。火付けは死罪ですが、そのとき十五という歳だったため遠島になりました。
   
 花鳥は大坂屋の「呼び出し昼三」という最高級の花魁でした。十五歳でですから、ものすごい美人で、勘気の強い女性だったと思われます。きっと頭もよかったのでしょうね。
 我慢が出来ない何かがあって、付け火をしたと思われます。小説ならば、いろいろ考えられそうです。
   
 花鳥が島に流されて十年後、喜三郎が八丈に来ます。二人の間に、まあ男女の情が芽生えたものと思われます。二人だけではありませんが、手に手をとって島抜けをはかりました。
 一説では、海上を半里泳いで漁船に拾われたという話もあります。
   
 なんとか逃げ延びて、江戸に辿り着くことができました。しかし当然追っ手がかかります。三月後には喜三郎が捕えられ、そして花鳥は三年後、団十郎の芝居を見物しているところを召し取られます。
 花鳥は市中引き回しの上、打ち首獄門となりました。
   
 大坂屋花鳥は絶世の美女だったといわれていますが、身売りをさせられた少女期から死罪になるまで、波乱万丈の生涯を送ったことになります。落語や芝居にもなりました。”
   
- 千野隆司の「時代小説の向こう側」 : 大坂屋花鳥