2011/07/26




“日本で有名なクトゥルーの映画といえば、崖の上のポニョ”



“96 名前:名無しさん@涙目です。(チベット自治区)[sage] 投稿日:2011/07/20(水) 22:52:43.76 ID:DXZ/o1lj0
たけし、さんま、タモリ、この3人のパワーバランスがとれているのは、
すべて 『志村けん』 のお陰。
志村の若手・中堅芸人からの支持は、尋常じゃない。

フライ○ー襲撃後、たけしが一時的に干された時は、志村がたけしの家族と
軍団、軍団の家族の生活費を面倒見てたし。

当時の志村とたけしは、ライバル関係。
ド○フが○ょうきんに潰され、かとちゃんけんちゃんごきげんテレビと○ょうきんで
視聴率を争っていた。なのに、志村はたけしを助けた。

たけしの著書に書いてあった、
『おそらく、けんさんの出費は3億円はくだらない』って。

『 出所した後、けんさんの所に行って、ご迷惑おかけしました。軍団がお世話になりました。お金は必ず返します。』 って
言ったら、『 たけしさん、俺は口下手だから、うまく言えないけど、今回の事は気にしないでよ。俺が勝手にやった事だよ。
それよりも、今まで通り、どっちがお客さんを笑わせるか、ライバルでいてくれよ。だから、今回の事は忘れてくれよ・・・。
今まで通り、頼むよ。 』 って志村。

テレビにも出れない新人芸人が、娘の手術費に300万必要って
志村に泣きついた。そしたら、志村は出世払いでいいよって1000万円現金で
ボストンバッグごとあげた。
志村と交流のある、松○と若手芸人が怪しんで、問い詰めたら、嘘発覚。
○袋筋太○が志村に言ったら、 『 なんだ、娘さん無事なの?良かったな~。ほっとした!
貸した金?ああ、どうでもいいよ。金は天下の回り物だw 』って。

○袋はその場で、『志村さん・・・なんでそんなに良い人なんですか。俺は自分が恥ずかしい 』って
泣き崩れた。


199 名前:名無しさん@涙目です。(チベット自治区)[sage] 投稿日:2011/07/20(水) 23:12:49.93 ID:DXZ/o1lj0
志村けんの人格の良さは、色々な芸人の本でも書かれているからな。
共演者がどんなに新人でも、かならず共演する人の楽屋に自分一人で
挨拶に行くってのは、超有名。

松本の【遺書】にも、『 やたらと親切で礼儀正しいおっさん。 おい、まっちゃん!
関東に進出して、おめでとう!何か困ったことがあれば、この俺に言えよ!その代わり、
俺が売れなくなったら、松っちゃんの番組で使ってよw 』 って。

関東に出てきて、関東の芸人さんに初めて優しくしてもらいましたわw
鉄アンド○が、NHKの番組に出る前に楽屋でくつろいでたら、
いきなりノックされて、出たら志村だったっていう。

『 俺、あなた達の後に出番で、今さ、楽屋でくつろいでたの。そしたら、マネージャーが、
隣の楽屋に鉄アンド○がいるっていうから、挨拶にきたのよ。』

『わっ!え!いや!ちょっと!本当に志村けん?あ!呼び捨てすみません!え?嘘?すみません!』
って鉄はビビりまくり(雑誌のインタビューより抜粋)

この時の出来事を後に、雑誌で【 ドッキリかと思いました。あの、あの志村さんが、
俺たちみたいな者の楽屋に挨拶って・・・】

『 こういう時代だからこそ、こういう暗い話題ばかりの日本だからこそ、お互いに
笑いで盛り上げて行こうな! 』 って志村さんに言われた。って暴露してたw”



ある企業で聞いた話ですが、工場で働いている人たちの仕事の能率があまりに悪いので、試しに国語のテストをしたら、びっくりするくらい語彙が少なく、成績がよくなかったそうです。たしかに「うぜーな。うぜーよ。メシいこうぜ。マジっすか?」くらいの言葉で済んでしまう世界がある。(中略)それはマズいと思って、その企業は国語教育を始めたんだそうです。それで、彼らが国語が少し面白いと思い始めたあたりから、俄然仕事の効率がよくなった。
原研哉/阿部雅世『なぜデザインなのか。』
— 語彙力が低い人が多く住む地域は犯罪発生率も高い、って話もあったっけ。



1:名無しさん@涙目です。(東京都):2011/07/26(火) 05:48:30.64 ID:iDIQV0p00
「やくざ」に制裁=薬物取引や人身売買で-米大統領 【ワシントン時事】
 オバマ米大統領は25日、国境を越えた犯罪行為で利益を上げる「国際犯罪組織」に金融制裁を科す大統領令に署名、薬物・武器取引や人身売買を展開しているとして、日本の「やくざ」を制裁対象に指定した。
  同日発表した「国際組織犯罪に関する大統領戦略」の一環で、このほか、イタリア、メキシコ、旧ソ連を拠点に活動する3団体を制裁対象に含めた。
 財務省の声明は、日本の暴力団が2008年時点で8万人の構成員を抱えると指摘。
 覚せい剤を中心とした薬物取引や武器密売のほか、東アジア各国の犯罪組織と連携し、売春や人身売買などの「深刻な犯罪」を行っていると言明した。
 また、建設・不動産・金融業界でフロント企業を使って違法な収益を上げる一方、米国内でも薬物取引やマネーロンダリング(資金洗浄)などの活動を行っていると説明した。
 ただ、声明では、暴力団の具体的な組織名を挙げていない。 
 制裁により、米国管轄下にある指定団体の資産は凍結され、米国の団体・個人との取引が禁じられる。(2011/07/26-01:35)



“科学とは、知をもって信をおきかえること”



“お前は聞きかじった人の言葉をお経みたいに唱えすぎる。少しは自分の頭で考えるように努力してみろ。自分の考えを言うようにしろ。はじめは、たったひとつでも構わんからな。 (仏作家 Jules Renard にんじん) http://amzn.to/nx7bKt”



ごく大雑把な話をする。
 人間を救うのは知性だと思う。この場合の知性とは、ナマの動物としての自分が激しく吠えたてようとしているときに、そこに、自分の責任において理由を与えようとするような機能のことだ。あるいは、無秩序な現象であるような世界に対して、説明を与えようとする意志でもある。
 たいていの場合、これは実感とは反する。なぜなら、そうしようとした人は、悩むからだ。悩むだけならまだいい。強い苦しみがあることも多い。それでも俺はやはり思う。知性は人間を救う、と。逆にいえば、知性は人間しか救わない。人間にも動物の部分がある。その部分を知性は救わない。苦しむのもまたその部分だ。



“きみは、この日記を書く前に100メートルを全速力で走るべきだった。
ローリング・ストーンズを100回聞くべきだった。見知らぬ女の子に話しかけてみるべきだった。「あしたのジョー」の10年後を想像するべきだった。
ぼくは、「生きる」などということを10行くらいで書いて悩むような軽薄さを好まない。”
寺山修司「時速100キロの人生相談」



“YouTube。3年前に登場したこのサービスをすべて見るには2000年ほどかかるという。”



195 名無しさん@涙目です。(大阪府) :2011/07/25(月) 21:42:00.17 ID:vc95tJnM0
ってかアインシュタインこそが未来人だろ。
あいつはタイムトラベルが可能になってしまい、
過去の改変が無秩序に行われる悲惨な世界からやって来た未来人。
だからタイムマシンが開発されなくなる方向へ世界を持っていった。

225 名無しさん@涙目です。(神奈川県) :2011/07/25(月) 21:45:13.75 ID:s9uyF9K60
»195
ちょっと面白いな



勝手に変えられる放射線の安全基準値。
何億円もかけてSPEED(緊急迅速放射線影響予測ネットワーク)という画期的なシステムをつくっておきながら、本当に避難しなければならない人々に嘘の安全を呼びかけるなど、政府は情報操作をしているという恐ろしい事実も告白している。
最後に衝撃の言葉を。
今の日本は20年以上前のウクライナ(チェルノブイリがあった国)より遥かに遅れたことをやっていると思います。年間100ミリシーベルトでも大丈夫なんていっている御用学者は自分が人柱になればいいんです。身をもって安全性を証明しろといいたくなる。



■8.天皇制は危機管理の国家機関
 どこから改めるべきか。そのヒントを筆者は、佐々氏の天皇陛下のメッセージに関する次の発言に見る。
__________
 それにしても改めて、天皇制は危機管理の国家機関であると思いましたね。災害でみんなの心が沈んでダメージを受けているところへ必ず出かけられるでしょう。終戦の時もそうでした。
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
 終戦時、日本中が焼け野原になった時、昭和天皇が日本全国を巡幸されて国民を励まされた。我が国の奇跡的な復興はここから始まった。[a]
 幕末の黒船の危機においても、明治天皇を中心に、江戸幕府から明治新政府に一大転換を果たし、そこからアジアで最初の近代国家を築いていった。[b]
 なぜ天皇制が危機管理の国家機関になりうるのか。その理由は、天皇の役割りが、無私の御心で国民の安寧を祈られることだからだ。
 その御心を体して、政治家が政治を行えば、まずは国民を護ろうという志となり、それが治安・防衛・外交のそれぞれの分野の専門家により政策として展開されていく。
 特に国家的危機の場合は、国民それぞれが各自の利害を離れて、国家と国民を護るために、力を合わせていくことが必要だが、天皇が民の安寧をひたすらに祈られる姿を中心とすることで、国民それぞれの思いが一つにまとまりやすい。
 天皇は国民統合の象徴という憲法第一条の真の意義はここにある。そして、この国民統合は平時よりも危機の時にこそ、必要とされるものだ。
 国民一人ひとりが、互いを護るという志を持って、我が国の治安・防衛・外交を真剣に考え、それを託すに相応しい政治家を選ぶところから始めるべきだろう。



“975 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2011/07/09(土) 19:08:53.06 ID:HLwotD7m0

青い目

長い間わたしたちは見つめあっていた。

まだお互いに触れ合ってもいないのにあの人はしっとりと汗をかいていた。
あの人の吸い込まれるような青い目に見つめられると、自分がほとんど
裸でいることがひどく無防備に思えてくる。

あの人の故郷のあのヨーロッパの小さな国では、男の人はみなこんなに
たくましいのだろうか、そんな思いに心を漂わせていると、 ふいに彼が
こちらに手を伸ばし、気がつくとわたしはそのがっしりした腕の中に抱き
すくめられていた。

彼はわたしの耳元で激しくあえぎながら、いつもの性急さでわたしの体を
覆うたった一枚残された布切れに手を伸ばしてくる。

いけない。またいつものように彼に主導権を握られてしまう。
わたしは必死で抵抗するが、もう手遅れだった。

彼は腰を打ち付けるようにしてがぶり寄ると、わたしを土俵の外に押し出したのだった。”



“あるお寺に和尚さんがいたのだが、
長年老体に鞭打ったのが仇となり、とうとう半寝たきり状態になってしまった。
読経や寺の掃除など一切の業務を弟子に任せきりとなってしまったため、
暇を持て余してしまった和尚さんは、ある日から文字の書いたカードを仕切りに音読し始めた。
弟子が不審に思って「それは何か」と尋ねると、
和尚さんは笑顔で「英単語の暗記カードだ」と言う。
和尚さんの年齢はその時すでに80歳を越えていた。
残念ながらこの先回復する見込みもなく、はっきり言って後は死ぬだけ。
弟子は気後れしながらもそのことをやんわり和尚さんに伝え、
失礼とは思いつつ、それが「無意味」であるとたしなめる。
すると和尚さんは怒ることもなく、
「昔から英語がぺらぺらになりたいという夢があった。
もう80を越え、先も短いかもしれないが、
今度生まれ変わったとき少しでも楽に覚えられるように、
今のうち勉強しておるのじゃ」と笑顔で答えた。
それを聞いた弟子はその前向きさに感銘を受け、それから暗記のお手伝いをするようになったそう。”



“~私の好きなレミ言葉~
(市場で新鮮なお刺身を一口食べて)
「おいしい!これ,しししし死に立てでしょ?死んだばっかの味!」”



赤の席にお座りは戦士さん。皆さんの盾役になれるのが自慢だそうです。
緑の席にお座りは勇者さん。お父様はあの有名なオルテガさんであられます。
白の席にお座りは僧侶さん。得意な呪文はホイミだそうです。
青の席にお座りは魔法使いさん。メラの練習は毎日欠かしたことがないそうです。
4人で参ります。まずはこの戦闘から。
 【スライムがあらわれた】



■1.石のひとつでも投げられりゃあいいんだ■
ヒロヒトのおかげで父親や夫が殺されたんだからね、旅先で石のひとつでも投げられりゃあいいんだ。
ヒロヒトが40歳を過ぎた猫背の小男ということを日本人に知らしめてやる必要がある。神さまじゃなくて人間だ、ということをね。
それが生きた民主主義の教育というものだよ。

昭和21年2月、昭和天皇が全国御巡幸を始められた時、占領軍総司令部の高官たちの間では、こんな会話が交わされた。[1]
しかし、その結果は高官達の”期待”を裏切るものだった。昭和天皇は沖縄以外の全国を約8年半かけて回られた。行程は3万3千キロ、総日数165日。各地で数万の群衆にもみくちゃにされたが、石一つ投げられたことはなかった。

イギリスの新聞は次のように驚きを率直に述べた。

日本は敗戦し、外国軍隊に占領されているが、天皇の声望はほとんど衰えていない。各地の巡幸で、群衆は天皇に対し超人的な存在に対するように敬礼した。何もかも破壊された日本の社会では、天皇が唯一の安定点をなしている。

イタリアのエマヌエレ国王は国外に追放され、長男が即位したが、わずか1ヶ月で廃位に追い込まれた。それに対して、日本の国民は、まだ現人神という神話を信じているのだろうか?
欧米人の常識では理解できないことが起こっていた。[2]

■2.全国を隈無く歩いて、国民を慰め、励ましたい■
昭和天皇が全国御巡幸の決意を示されたのは、敗戦直後、昭和20年10月であった。宮内府次長加藤進氏に次のように指示された。

この戦争により先祖からの領土を失ひ、国民の多くの生命を失ひ、たいへん災厄を受けた。この際、わたくしとしては、どうすればよいのかと考へ、また退位も考えた。しかし、よくよく考へた末、全国を隈無く歩いて、国民を慰め、励まし、また復興のために立ちがらせる為の勇気を与へることが自分の責任と思ふ。このことをどうしても早い時期に行ひたいと思ふ。ついては、宮内官たちはわたくしの健康を心配するだらうが、自分はどんなになってもやりぬくつもりであるから、健康とか何とかはまつたく考へることなくやってほしい。宮内官はその志を達するやう全力を挙げて計画し実行してほしい。[3,p23]

御巡幸の打診を受けた占領軍総司令部は、冒頭で紹介したような魂胆もあって、許可した。

■3.「食べ物は大丈夫か」「家はあるのか」■
昭和21年2月19日の最初のご訪問の地は、昭和電工・川崎工場であった。食糧増産に必要な化学肥料の硫安を生産していたが、空襲で70%の設備が破壊され、社員は必死で復旧に努めていた。

一列に並んだ工員たちに、昭和天皇は「生活状態はどうか」、「食べ物は大丈夫か」「家はあるのか」と聞かれた。感極まって泣いているものも多かった。案内していた森社長は、天皇が身近な質問ばかりされるので、宮中で安楽な生活をされていたら、こんなことは口だけでは言えまい、と急に深い親しみを感じた。[4,p376-381]

二度目の御巡幸は、2月28日、都内をまわられた。大空襲で一面、焼け野原である。新宿では、昭和天皇の行幸を知った群衆が待ちかまえ、自然に「天皇陛下、万歳」の声が巻き起こった。昭和天皇が帽子をとってお応えになると、群衆は米兵の制止も振り切って、車道にまでなだれこんだ。これ以降、巡幸される先々で、このような光景が繰り返された。[3,p61-62]

■4.あつさつよき磐城の里の炭山に■
昭和21年には、関東、東海地方の各県を廻られ、22年6月には、大阪、兵庫、和歌山。そして8月の酷暑の中を東北全県の巡幸を希望された。側近が驚いて、涼しくなってからでは、と延期を願ったが、「東北の運命(食料の増産)は、真夏にかかっている。東北人の働くありのままの姿を是非この目に見て激励してやりたい」と許されなかった。
敗戦直後で、宿舎がままならず、列車の中や、学校の教室に泊まられた事もあった。「戦災の国民のことを考へればなんでもない。十日間くらゐ風呂に入らなくともかまはぬ」と言われて、行幸を続けられた。

出炭量の40%を占める重要なエネルギー供給基地福島県の常磐炭坑では、地下450mの坑内を歩かれ、40度の中を背広、ネクタイ姿で、上半身裸の鉱夫たちを激励された。深い坑内で万歳の声が轟いた。この時の御製(お歌)である。[3,p123-127]

あつさつよき磐城の里の炭山にはたらく人をををしとぞ見し

■5.浅間おろしつよき麓にかへりきて■
この2ヶ月後には休む暇なく、甲信越地方9日間の御巡幸に出られた。最初に浅間山の初雪の中を2キロも歩かれて、山麓の大日向開拓村を訪問された。大日向村は満洲への分村移民を全国で最初に実行した村である。しかしソ連の満洲侵略により、移民694名中、ようやく半数の323名が生き残って、村に帰ってきた。そして標高1095mの荒れ地を切り開いて、入植していたのである。

天皇をお迎えした開拓団長堀川源雄の奏上は、幾度となく涙でとだえた。昭和天皇のお顔も涙に濡れた。[3,p163-165]

浅間おろしつよき麓にかへりきていそしむ田人とふとくもあるか 

■6.老人(おひびと)をわかき田子らのたすけあひて■
この年、11月から12月にかけてには、さらに鳥取、島根、山口、広島、岡山をまわられた。島根県では新川開拓村で3万人の奉迎に応えられた後、伊波野村で農作業をご覧になられた。
農業会長が、働いている老夫をさして、「我が子を二人とも失いましたが、村人の助けも得て、屈することなく働いております」と説明すると、天皇は次のようなお言葉とお歌を賜った。

この度は大事な二人の息子を失いながら、猶屈せずに食糧増産に懸命に努力する老農の姿を見、一方又、これを助ける青年男女の働きぶりを見て、まことに心うたれるものがあった。このやうな涙ぐましい農民の努力に対しては深い感動を覚える。いろいろ苦しいこともあらうが、努力を続けて貰ひたい。[3,p201-203]

老人(おひびと)をわかき田子らのたすけあひていそしむすがたたふとしとみし

■7.ああ広島平和の鐘も鳴りはじめ■
12月5日、広島に入られる。広島市では戦災児育成所の原爆孤児84名に会われた。原爆で頭のはげた一人の男の子の頭を抱えるようにして、目頭を押さえられた。周囲の群衆も静まりかえって、すすり泣く。

爆心地「相生橋」を通過されて、平和の鐘が鳴る中を元護国神社跡で7万の奉迎を受けられた。周囲には黒こげの立木、あめのように曲がった鉄骨が残る中で、天皇はマイクで次のように語られた。

このたびは皆のものの熱心な歓迎を受けてうれしく思ふ。
本日は親しく市内の災害地を視察するが、広島市は特別な災害を受けて誠に気の毒に思ふ。広島市民は復興に努力し、世界の平和に貢献せねばならぬ。

ああ広島平和の鐘も鳴りはじめたちなおる見えてうれしかりけり

この中国地方行幸にお目付役として同行していた占領軍総司令部民政局のケントは、原爆を落とされた広島の地ですら誰一人天皇を恨む者がいないことに、ただただ驚くばかりであった。
もともと天皇制廃止を目論んでいた民政局は、兵庫県で小学生達が禁止されていた日の丸を振ってお出迎えしたのを「指令違反」であるとして、以後の御巡幸中止を命じた。

しかし、御巡幸を期待する九州、四国地方からの嘆願や議会決議が相次ぎ、昭和天皇も直接マッカーサーにお話しされた模様で、翌々年に再開が許可された。[3,p212-238]

■8.子らに幸あれ■
昭和24年5月18日から6月10日にかけては、九州全県を巡幸された。5月22日に立ち寄られた佐賀県基山町の因通寺には、40余名の戦災孤児のための洗心寮があった。孤児たちの中に、位牌を二つ胸に抱きしめていた女の子がいた。

昭和天皇は、その女の子に近づかれて、「お父さん、お母さん?」と尋ねられた。「はい、これは父と母の位牌です」とはっきり返事をする女の子に、さらに「どこで?」。

「はい。父はソ満国境で名誉の戦死を遂げました。母は引き上げの途中病のためになくなりました。」

天皇は悲しそうな顔で「お寂しい」と言われると、女の子は首を横に振って、「いいえ、寂しいことはありません。私は仏の子です。仏の子供は亡くなったお父さんとも、亡くなったお母さんともお浄土にいったら、きっともう一度会うことができるのです。・・・」

昭和天皇は、すっと右の手を伸ばされ、女の子の頭を2度、3度と撫でながら、「仏の子供はお幸せね。これからも立派に育っておくれよ」と言われた。数滴の涙が畳の上に落ちた。
「お父さん」、女の子は小さな声で昭和天皇を呼んだ。[5]

みほとけの教へまもりてすくすくと生い育つべき子らに幸あれ

■9.天皇陛下さまを怨んだこともありました■
因通寺の参道には、遺族や引き揚げ者も大勢つめかけていた。
昭和天皇は最前列に座っていた老婆に声をかけられた。「どなたが戦死をされたのか」

「息子でございます。たった一人の息子でございました」声を詰まらせながら返事をする老婆に「どこで戦死をされたの?」

「ビルマでございます。激しい戦いだったそうですが、息子は最後に天皇陛下万歳と言って戦死をしたそうです。・・・天皇陛下様、息子の命はあなた様に差し上げております。息子の命のためにも、天皇陛下さま、長生きをしてください」

老婆は泣き伏してしまった。じっと耳を傾けていた天皇は、流れる涙をそのままに、老婆を見つめられていた。

引き揚げ者の一行の前では、昭和天皇は、深々と頭を下げた。
「長い間遠い外国でいろいろ苦労して大変だったであろう」とお言葉をかけられた。一人の引き揚げ者がにじり寄って言った。

天皇陛下さまを怨んだこともありました。しかし苦しんでいるのは私だけではなかったのでした。天皇陛下さまも苦しんでいらっしゃることが今わかりました。今日からは決して世の中を呪いません。人を恨みません。天皇陛下さまと一緒に私も頑張ります。

この言葉に、側にいた青年がワーッと泣き伏した。「こんな筈じゃなかった。こんな筈じゃなかった。俺がまちがっておった。俺が誤っておった。」

シベリア抑留中に、徹底的に洗脳され、日本の共産革命の尖兵として、いち早く帰国を許されていた青年達の一人であった。
今回の行幸で、天皇に暴力をもってしても戦争責任を認めさせ、それを革命の起爆剤にしようと待ちかまえていたのである。天皇は泣きじゃくる青年に、頷きながら微笑みかけられた。[5]

■10.復興のエネルギー■
九州御巡幸では約190カ所にお立ち寄りになり、各県とも6、7割の県民が奉迎したので、約700万人とお会いになった。

御巡幸はその後も、四国、北海道と昭和29年まで続き、8年半の間に昭和天皇は沖縄をのぞく、全都道府県をまわられ、お立ち寄り箇所は1411カ所におよんだ。奉迎者の総数は数千万人に達したであろう。

戦のわざはひうけし国民を思ふこころにいでたちてきぬ
わざはひをわすれてわれを出むかふる民のこころをうれしとぞ思ふ
国をおこすもとゐとみえてなりはひにいそしむ民の姿たのもし(*なりはひ=しごと)

大日本帝国が崩壊して、始めて国民は間近に天皇を拝する機会を得た。驚くべき事に、それは人々と共に悲しみ、涙を流す天皇であった。一人ひとりが孤独に抱えていた苦しみ、悲しみに、天皇が涙を流された時、人々は国民同胞全体が自分達の悲しみ、苦しみを分かち合ってくれたと感じ、そこからともに頑張ろう、という気持ちが芽生えていった。戦後のめざましい復興のエネルギーはここから生まれた。
昭和63年9月、昭和天皇が病床につかれると、全国の御平癒祈願所に約9百万人が記帳に訪れた。40数年前の御巡幸で昭和天皇に励まされた人々も少なくなかったであろう。

昭和天皇は病床で「もう、だめか」と言われた。医師たちは、ご自分の命の事かと思ったが、実は「沖縄訪問はもうだめか」と問われたのである。御巡幸の最後の地、沖縄に寄せられた昭和天皇の御心は、今上陛下によって平成5年に果たされた。



“「すぐ役立つことは、すぐ役立たなくなります」(p.140)

→本書の所々に、「無駄は大事」的なことが出てくる。
 俺のような勤め人は、ともすれば昨今の四半期決算やら短期目標に踊らされ勝ちで、
 なかなか自分の土台作りに目が行かなくなりがち。
 「7つの習慣」(今後紹介します)での「第二領域」にフォーカスしようとの意味が込められている。
 フランス語に「ブリコルール」という言葉がある。
 「ありあわせのものでなんとかその場に対応する」との意味。
 今種を蒔いたものが、いつかどこかのタイミングで「ブリコルール」の材料として作用してくる。
 無駄なことと思っていたものが、不意に生きてくる瞬間、ないですか?”



“いったん退陣表明したくせに、ズルズルと宰相の座に居座り続け、鳴り物入りで抜擢した復興相の暴言辞任でも責任を取らない“あの人”を、なぜ大メディアは許してしまうのか。政治評論家の森田実氏は、菅首相を始めとする情けない政治家たちを甘やかしてきた新聞、テレビの責任は重いと指摘する。
 * * *
 なぜ、新聞、テレビなどの大マスコミは菅政権にこれほど甘いのか。
 結論から言えば、特に東京に本社を構えるテレビや新聞各社が、横並びの政府御用報道機関に成り下がっているからである。
 
 そもそも、大新聞社の社屋がある土地はほとんどが政府から払い下げられたもので、大新聞社はその土地を使って不動産業を営み、経営を支えている。
 過去において、新聞の全国一律定価販売などを巡り、新聞社への独占禁止法の適用問題が表面化した時、各紙は一斉に政権攻撃を強めるが、適用見送りになると、一気に攻撃が沈静化するという茶番劇を、私は何度も見せつけられてきた。
 
 要するに、これら大新聞社は、一見すると政権に対して批判がましいことを言っているようでも、実は駆け引きのための揺さぶりをしているに過ぎないのだ。国から放送免許をもらっているテレビ局も事情は似たりよったりである。
 かつてマスコミは司法、立法、行政を監視する「第四の権力」と言われたものだが、今や「第一の権力」と言っても過言でない巨大な力を持つようになっている。
 その典型が『読売新聞』だ。同紙は6月3日付社説で、こう書いた。
〈大連立によって国難に立ち向かい、日本再生の具体像を提示すべきだ〉
 次の衆議院選挙まで約2年。民主党と自民党が連立政権を組めるわけはないのに、読売は自分が政治を動かす権力者になったつもりで大連立を声高に叫んでいるのだ。2007年の大連立騒動の時もそうだったが、メディアとして傲慢と言うほかない。
 かつての自民党政権と官僚の蜜月時代には、メディアの力はそれほどでもなかったように思う。しかし、小泉政権が郵政改革を断行するために「抵抗勢力」と名指しした族議員を排除する過程で、メディアと政治権力は「反官僚同盟」とも言うべき関係を結ぶに至った。
 
 自民党から政権を受け継いだ民主党も「政治主導」の名の下に、過剰なまでの官僚排除を打ち出す一方、メディアも官僚を叩くことで自らの相対的地位を高めていった。その結果、大手メディアに「官僚を叩けば受ける」という安直な報道姿勢が目立つようになったのだ。
 そうした報道姿勢の弊害は、今回の震災報道にも表われている。実際に現地を見れば分かるが、今、被災地に欠けているのは「復興に向けたカネ」と「中央政府の存在感」である。これらは、内閣が行政の担当者である官僚に仕事をさせることで、初めて実効性が担保される。しかし官僚を排除した「政治主導」を掲げてきた菅内閣は、官僚を全く使いこなせていない。こうした問題を追及している大マスコミを私は知らない。
 さらに言えば原発事故のすべての責任を東電に押し付けている菅政権の姿勢に疑問を呈する報道もほとんどない。
 私の知る限り、6月24日付『東京新聞』で、民主党の山口壮衆院議員がインタビューに答え、政府の原発事故対応の問題点として「政府が責任を持って解決する気迫が足りない」「統合本部が東電にあることもおかしい」と言っているぐらいだ。
 
 3.11直後から「東日本大震災への対応のために、一時、菅政権への批判を控える」といった風潮が一部のメディアにあったのは確かである。しかし私は、政治家やジャーナリストのそんな「配慮」は、百害あって一利なしと考える。
 
 政治指導者はもちろん、マスコミ人も物事の「是非」を曖昧にしてはならない。批判を忘れたら民主主義は成り立たないからだ。批判精神を捨てたマスコミは有害である。
※SAPIO 2011年8月3日号”



 
“「〇田恭〇の丸見え画像」をMXで落としたら、
深田恭子ではなく、上半身裸の
柴田恭平だったときの衝撃は今でも忘れない。”